1人の社長と地域の未来を変えた
「日本初」への挑戦

ストラテジクスマネジメント株式会社
経営企画管理室 室長

山田 麻美 さん

取材日: 2020-12-22

ねっとの窓口A1市街地グランプリ GOTSU 2020

2020年9月20日に島根県江津市で開催された日本初の市街地レースイベント。ストラテジクスマネジメント株式会社を母体とするA1市街地レースクラブとA1市街地グランプリ江津大会実行委員会が主催となって開催された。全長約783mの江津市内の市道・県道・国道すべてを含めたJAF公認のコースを、11台のレンタルカートが走り抜けた。

山田 麻美 さん プロフィール

2006年入社。2013年の日本初市街地レースの企画構想開始時よりプロジェクトの中心人物として提案書作成や許認可申請、関係各位との調整など実務全般を担う。大会当日は現場責任者としてイベント運営を行った。

1人の社長と地域の未来を変えた
「日本初」への挑戦

ねっとの窓口A1市街地グランプリ GOTSU 2020

2020年9月20日に島根県江津市で開催された日本初の市街地レースイベント。ストラテジクスマネジメント株式会社を母体とするA1市街地レースクラブとA1市街地グランプリ江津大会実行委員会が主催となって開催された。全長約783mの江津市内の市道・県道・国道すべてを含めたJAF公認のコースを、11台のレンタルカートが走り抜けた。

山田 麻美 さん

ストラテジクスマネジメント株式会社
経営企画管理室 室長

2006年入社。2013年の日本初市街地レースの企画構想開始時よりプロジェクトの中心人物として提案書作成や許認可申請、関係各位との調整など実務全般を担う。大会当日は現場責任者としてイベント運営を行った。

取材日: 2020-12-22

今回は、日本初の市街地レース「A1市街地グランプリGOTSU2020」の立役者の1人。ストラテジクスマネジメント株式会社の経営企画管理室室長の山田さんにお話を伺いました。「東京から最も遠い街」「消滅可能性都市」とまで言われた人口約2万4000人の小さな町で行われた日本初の市街地レースはどのようにして開催に至ったのか、7年間の軌跡に迫ります。

「日本初の企画を手土産に」代表の頭の中にある企画書から始まった。

― 今まで誰も成し得なかった日本での市街地レース開催ということで、まさしく「日本初」のイベントを見事成功に導いたわけですが、以前にもこの会社では大型イベント開催のご経験があったのでしょうか。

今回のように地域を巻き込んだ大きなイベントは今まで企画したイベントの中で初めてです。開催経験はありませんでした。しかしモータースポーツに関していえば、市街地レースの企画発案と同時期の2013年に、当社のブランド(シナジーフォース)で二輪レースチームのスポンサー活動が始まったこともあって、以前から知識はありました。ちなみにこのときサポートしたバイクチームは、初めてオールジャパンチーム(注:監督、スタッフ、選手など日本人のみで構成されたチーム)でルマン24時間耐久レースに初参戦して、9位入賞という快挙を達成しました。
スポンサーという立場からではありますが、国内や海外の様々なサーキットにレースを見に行っていたんです。そこでモータースポーツの競技とは何なのか、レースがどんな形で開催されて、チームがどう運営されているかをコンサルティングの視点で見て吸収していきました。
私自身も、A1市街地グランプリのためにこの数年間、レンタルカートのレースを体験していたんですよ。それも、1回や2回じゃなくて国内外問わず50ヶ所以上のカートサーキットを走行しました。楽しくなきゃできないですよね。
それまではモータースポーツに全く縁がなかった私でも、実際に見て、体験することで楽しいと思うことができたし、モータースポーツの奥深さを肌で感じたんです。これなら見たことや聞いたこともない、興味もない人でもきっと楽しむことができると確信していました。

― 確か、地元企業である森下建設の森下社長(当時常務)と以前から交流があって、地方創生の相談をされたところから始まった企画なんですよね。モータースポーツの知識があるとはいえ、地方創生が目的なら別の選択肢もあったと思いますが、あえてリスクの高い市街地レースを選択したのはどうしてだったんですか。

従来モータースポーツはサーキット場へ足を運ばなければ観戦できない閉鎖的なスポーツです。それが市街地レースでは普段身近に使っている道路で街の風景をバックにレースが繰り広げられます。だからこそ誰もが興味を示してくれると考えました。
また、コース設計やアドバイザーを務めてくださった森脇さん(注:F1解説者の森脇基恭氏)が協議会の時におっしゃった「『日本新記録』は更新されるけど、『日本初』の事実は誰にも塗り替えられない」という名言があります。「日本初の市街地レースを開催した、あの江津市」はずっと残り続ける。だからこそ「日本初」の企画にこだわりました。
それにハードルが高いからこそ、今まで誰もできなかったこと、自分たちでもできるかわからないことをやることに意味があったんです。開催できた時に江津市へもたらされる効果はもちろんですが、数年後に先代から事業承継することが決まっていた森下さんのためにも必要な要素だと考えていました。
森下さんは江津出身で、地元で代々建設業を営んでいる会社の3代目ですが、2009年頃から福岡や東京に居を構えて当社代表のコンサルティング指導を受けていました。ご自身も事業をされていたので地元にいる時間はほとんどありませんでしたが、2013年初頭にいよいよ事業承継の準備で帰郷することになりました。
そんな森下さんに「故郷で会社を継ぐのなら、地域のために貢献することが大事ですよ。」とアドバイスしたのが弊社の代表です。代表は市街地レースが地域活性に大きな効果をもたらすことをわかって森下さんに提案したんです。森下さんはそれを聞いて素早く行動に移されました。こうして市街地レース企画実現までの長い旅が始まりました。

― 地方創生だけでなく森下社長自身のブランディングもテーマだったとは、コンサルティング会社ならではの発想から始まった企画だったんですね。しかし大規模なイベント開催のご経験はなかったとのことでしたから、細かい企画内容を決めるのには相当時間がかかったのではありませんか。

それがこの会社の不思議なところで、企画内容が決まるのは速いんですよ。市街地レースについても、最初の企画立案の時点でコース図、観客、関係者、・レースの種類やタイムスケジュールなど、レースを開催するうえで必要な枠組みや、レンタルカートを使用することまでほとんどが決まっていました。
もちろんその過程で松江高専の大屋先生やF1解説の森脇さんに安全上問題がないかの確認をしていただきましたし、最終的にはJAFコース公認を得たわけですが、初めに代表が企画したものと大きな変化はありませんでした。
企画したのは森下さんから相談が2013年頃なので、それ以前に市街地レース開催を目指することになることは全く想定していませんでしたが、もしかしたら代表の頭の中にはずっとあった企画だったのかもしれません。
常に代表の頭の中にはアイディアがあるんですよね。学習から知識を得た訳でも情報を集めた訳でもないのに、現在の状況を的確に捉えて未来の最大値を予測して、頭の中で企画のイメージができているんです。
そのため、たくさんの社員を集めて協議する時間が必要ない分、企画の進行が速いのがこの会社の特徴でもありますね。
大会で実際に使われたのは多くの市街地レースで使われるフォーミュラカーに比べて、安全性の高いレンタルカート。最高速度70kmであるものの、カートが目の前を走り抜けるため、大迫力のレースに会場は大盛り上がりでした。
安全な大会実現のため、大会当日もスケジュールやコース確認など、直前まで入念なミーティングが行われたそうです。

前例がない壁、市民としての一言が流れを変えた。

― 企画内容は早い段階で出来上がっていたのに、企画立案から実際に開催されるまでに7年もの歳月がかかった理由は主に何だったのでしょうか。

やはり「前例がない」という事実が大きかったと思います。そもそも日本では誰もやったことがないため、どれだけ話を聞いても実際にイメージが湧くまでに時間がかかったと思います。
次に「これを行う意義はどこにあるのか?誰のためになるのか?」という議論も何年もありました。確かに公共の道路を使って危険を伴うレースをするわけですから、普通に考えたらなんでわざわざやるのか?と思いますよね。「市民が反対するに決まっている」とか「市民が一人でも反対したらやらない」と言われたこともありました。わからないことへの不安や、事なかれ主義が時間を止めていた原因の1つであったと思います。
最後に、許可を出すための判断基準となる前例がなかった分、開催に必要十分な根拠を集めてそれを関係各位が全員一致で合意するまでに時間がかかったと感じます。何かあった時に責任を問われるのは許可を出した機関になりますから、慎重になるのは当然のことだと思っていましたが、やはりハードルは高かったです。
7年間の間に「NO」とか「ダメ」と言われたことはありません。だからといって「YES」になるかは全く別の話でした。問題を一つずつ解決し要望に応えていきましたが、必ずしも上手く進むわけではないんです。関係者によって置かれている立場や状況も様々で、7年の間に担当者の人事異動も何度もありましたし、これだけ長い間ですと現地の方々のモチベーションも当然アップダウンがありましたので、スムーズにいく時とそうでない時がありました。その全てがピッタリ合うタイミングを待っている時間は長かったと思います。

― 初めてのことをするにはどうしても風当たりが強くなるものですからね。では、どのようにして打開したんですか。

とにかく根気よく市街地レースの意義を伝えました。そしてすべての要望に応えていきました。市役所、警察、道路管理者、その他機関などそれぞれ考えがありますから、1つずつ不安要素や要望を聞いて応えていったんです。
一番わかりやすい例でいうと、「6時間以上の道路使用許可は出せない」と言われた時ですね。まさか市街地レースを6時間で設営から撤収までできるなんて、普通は誰も思わないですよね。私も6時間と言われた時に「これは無理だ」と思いました。しかしここで代表が「コース全長を半分にする」と提案したんです。すぐにコース設計図を作り直してシミュレーションをした結果、6時間で全工程が収まる希望が見えてきました。この一件でレース開催が一気に実現に近付いたと思います。
責任問題についても、民間の有志で結成された江津大会実行委員会の今井委員長と当社の上口代表が責任を取ると宣言しました。それでもまだ開催するともしないとも決まらず、「市民からのクレームがあったときにどうするか」「公共公益性についてどう説明するのか」など問題が起こることや許可が出ないことを前提とした話し合いで時間だけが過ぎていきました。
ところが、2019年の11月に行われた会議で流れが大きく変わりました。その日の会議も「市民の声は?」「公共性・公益性は?」とこれまでも何度も話し合われたことが再燃し、平行線の議論が続いていました。そんなどんよりした空気の中で、森下社長が立ち上がり一言、「私も江津市民です。」と言い放ったんです。「市民が地元のためにこんなに必死になっているのに、なぜ行政が行動しようとしないのか」と。森下さんが誰よりも足を動かして、一生懸命に活動をしているのを全員が知っているからこそ、市民の1人としてのその言葉が、全員に重く響いたんですね。これは大きなターニングポイントだったと思います。
森下社長が誰よりもレース開催のために動き続けていた。
長年の交渉の末、ようやく手にした道路使用許可証。6時間というシビアな時間制限付きではあったものの、日本のモータースポーツ界へ新たな歴史を刻んだ瞬間です。

常にニュートラルな状態だからこそブレない

― 前例のない大変な企画だったわけですが、この会社からはこの企画に何人くらい参加されていたのでしょうか。

7年前の企画発足時から大会1ヶ月前まで社員は私1人です。代表を合わせると2人ですね。
正確な測量をもとにコース図面を作る必要が出てきた2017年に、今ではこの会社のメイン事業の1つになっているICTソリューション事業部も立ち上がりました。
他の社員は「また新しいこと始めるんだね」くらいの軽いリアクションをしていたと思います。7年もかかったので、さすがに後半は「本当にやるのかな」と悲観的な目で見ていた人もいたんじゃないかとは思いますが、批判的な意見を口に出す人はいませんでしたね。

― 挑戦することに寛容な社風なんですね。しかしそれだけの少人数で、この大変な企画に挑戦し続けるのは精神的にも辛かったんじゃないですか。

実は私たちの中に「やるぞ!」みたいなモチベーションはなかったんですよね。森下さんも代表も私も、「どうしてもやりたい」とか、「絶対に達成したい」とは考えていませんでした。もちろんだからと言って、やる気がなかったわけではありません。常にニュートラルな心理状態を保っていたといいますか、だからこそ壁にぶつかっても一喜一憂しませんでした。いろんな人からいろんなことを言われて、無理かなと思ったこともたくさんありましたが、それが原因で落ち込んだりはしませんでした。
「既存の概念を破る」とか、「責任と覚悟を持って新しいことに挑む」といったこれからの日本に求められていることを切り拓いていると感じていましたから、「できなくてもいいから、やれることはやろう。それが未来に求められているものなら実現するだろう」というスタンスでいたんです。このプロセスの中で私たちの会社が今後より質の高いサービスを提供するために力をつけたのは間違いありません。
わたし個人としては少し不安もありました。「開催できるかもしれない」という可能性が見え始めてから、開催決定に近付くにつれて「もしできなかったらどうしよう」という恐れが出てきてしまいました。「ここまで来たら絶対にやらなければならない」という想いが強くなってしまったんですよね。
でも不思議なもので、「絶対」と思うと焦りが出てしまって、できない可能性が増してしまうんです。代表から「君が(不安や焦りに呑まれて)ダメになってしまうくらいならこの企画はやらなくてもいい」と叱られたのを覚えています。他の企画でもそうですが、代表も弊社社員たちも常にニュートラルな心理状態で取り組むことを大切にしています。焦りや行き過ぎた気持ち、欲が出ると交渉がうまくいかなくなりますから、「できなくてもいい」くらいの覚悟を持っておくことが冷静に正しい判断をする上で重要なんです。
大会開催のため、大きな責任を背負う上口代表と、そんな代表を支え続けた山田さん。このお二人がいなければ日本初の市街地レースは実現しなかったといっても過言ではありません。

― 「できなくてもいい覚悟」ですか。意外なモチベーションですね。では最後に、日本初の市街地レースはどのような変化をもたらしたと思いますか。

まず江津市の方々の意識が変わりましたよね。きっと。「東京から一番遠いまち」「消滅可能性都市」と言われることもあってか、どこか元気や活気のないまちというイメージが市内外に定着してたように思います。そんな江津市が「歴史的な偉業を成し遂げたまち」「前例のないことにチャレンジできるまち」に変わったのではないかと思います。実際に終了後に市役所の職員の方から「市民にとって精神的な効果が大きかった」というお話を聞きました。
それに当日のボランティアの方々の働きは本当にすごかったです。6時間という前代未聞のチャレンジが、蓋を開けてみたらトラブルなく予定よりも早く完了しましたから、江津の方々の底力には本当に驚きました。
弊社についても、ノウハウを得ただけでなく、「前例がないことにチャレンジし、ブレイクスルーを実現できる」ことを多くの方に目に見える形で示すことができたと思います。以前から交流のあった方々の信頼にもつながりましたし、働く社員たちもすごいことを成し遂げた会社にいるんだと誇りに思ってもらえたのではないでしょうか。
そして何より森下さんに対する地元の方々の認識ですよね。この7年間で森下さん自身がたくさんのお宅や企業、関係各省庁などを回って、手弁当で必死に活動をされてきたことで、今や名前を聞けば「ああ、森下建設の社長だよね」と言われるほどの有名人になりました。市街地レースが実現したことで「あの人は諦めない」「地域のために頑張る人」というイメージが定着したんです。最高のブランディングになったのでないかと思います。
A1市街地グランプリGOTSU2020の企画発端となった森下社長は大会当日も注目の的となっていたようです。

― 貴重なお話をいただき、ありがとうございました。

インタビューを終えて

いかがでしたでしょうか。地方創生だけでなく森下社長個人のブランディングまで見事成功に導いた「ねっとの窓口A1市街地グランプリGOTSU2020」。
どんな分野においても前例がないことに挑戦するときは必ず大きな壁にぶつかるものだと思います。
熱意ばかりで乗り越えようとする場合が多いと思いますが、冷静に一つ一つの要望に応える姿勢を貫くことで成功に導くこの会社の考え方はとても興味深かったです。
7年間という歳月をかけて、この市街地レースで踏み出した新たな一歩が、地方創生だけでなく、日本の経済と技術の発展につながり、未来により多くの可能性を広げてくれるのではないでしょうか。

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